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己のゲーム遍歴 あるいは 感情のパンくず

あの空の向こうへ世界は続いている「ゼルダの伝説 Breath Of The Wild」レビュー

初めましての人は初めまして。

久方ぶりの人はお久しぶり。

sitaranaです。

 

今日のレビューは「ゼルダの伝説 Breath Of The Wild」です。

Tears Of Kingdomが発売しているのに今更?という疑問はごもっとも。

任天堂だって、とにかく新作遊べと前作のストーリーをダイジェストで流すそんな昨今。

知り合いに「BOTW(Breath Of The Wild)やってねーのかよ。プークスクス」と煽られたからです。コンチキショー

まあ、見るよりプレイした方が楽しいのは事実。

GWぶっ潰したけど、無事Tears Of Kingdom発売に間に合った(クリアだけ)のでレビューしておきましょう。

 

プラットフォームは勿論Switch。DLCあり、通常モード、プレイ時間はユーザプロフィールからざっくり85時間。

よろしくお願いします。

あの丘を越えた先に、きっと何かがある

冒険とは、旅とは何故ワクワクするのだろう?

ゲームでも、リアルの旅行でも不思議と先が気になってしまうことがしばしばあるものです。

それらはおそらく人の想像力に起因するのではないかと思います。

「先が続いているのが分かっているのに、その先が見えない」

「先が見えているのに、たどり着くことができない」

 

3Dだからこそできる、遥か彼方をのぞき見て期待させるマップ。

一転して山や丘、崖などの遮蔽物の裏に隠されたロケーション。

それらすべてがプレイヤーへ「先への期待」を抱かせるための仕掛けなのだと。

 

塔を上り、望遠鏡を覗き込み、気になる場所にピンを立て、ピンへ向かって駆け出す。

本作はそういった「探索」への導線がきっちりしかれています。

特に見事なのは高さを生かしていること。

シーカータワーはまさにその典型で、高いところから周りを見渡せば周囲が良く見える

そこから、見通せる場所と見通せない場所を探索のバリエーションとして機能させているのが素晴らしい。

見える場所には予想を、見えない場所には期待を。探索に欠かせない人のイメージを膨らませる、これ以上の仕掛けが他にあるでしょうか。

特にシーカータワーは、マップの解放・ランドマークと探索の起点となるように機能が集約されているのが憎らしい。

 

自分はエルデンリングでオープンワールドを経験しましたが、それと比べてもより視覚に依拠して探索を駆動しているように感じました。

(ダクソの系譜である死にゲーは近場の報酬から連鎖して目的地へ導くやり方がメインなので、背反する系を両立させているのはそれですごいことなのですが)

実際のところ、エルデンリングでも当然遠くにある目標を視認して、そこを目指して進むというのは同様です。それでも本作に「探索」を強く感じたのはパラセールの存在が大きいのでないかと思います。

 

あの丘を越える術を、僕らは授かった

オープンワールドは探索に大きな比重が寄せられているために、その移動手段も体感する世界の広さに大きく影響します。

エルデンリングならばトレント、ゴーストオブツシマなら馬、ならば本作は?

本作では、滑空飛行するパラセールが最も代表的な移動手段と言えるでしょう。

この滑空という手段こそが、先述したシーカータワー、つまり高さとセットで設計されています。

パラセールは高効率で移動できますが、滑空であるがゆえに起点となる高所がなければ十全に機能しません。

故に、プレイヤーはシーカータワーを優先して探すし、より高所に移動することを考える。

高いところが有利、という原則が探索にも展開されているんですね。

これの何が凄いって、通常飛行手段というのは割と最終兵器で、地上の障害物のほとんどを無視してしまえる = 世界を縮めてしまうからです。

 

ただ、本作はそれを差し引いても世界が広い。滅茶苦茶に広い。

リンク本人に壁登り能力まであり、スタミナ回復アイテムで無理矢理崖などを踏破できるようになっているうえで尚広い。

これだけ何でもあり、というバランスにも関わらず私は85時間プレイしても未探索の地域がちらほらあったりします。

これは偏に、3次元的に意図的に探索要素が隠されていることに起因しています。

ただ通り過ぎただけでは気づかないこと、山一つとっても上下左右東西南北、それらのいずれかの方向からしか見つけることができない要素が隠されていたりする。

単純な世界としての広さ以上に探索のためのマップとしての広さがとんでもないことになっているのです。

 

世界は楽しもうとする者のみに開かれる

じゃあ、なんでお前もうクリアした気になってんの?とお問いかけの貴方。

それは「もう、こんくらいでいいかな」と私が世界にバイバイしちゃったからです。

神獣ダンジョンは踏破したし、ガノンも倒した、剣の試練もクリアしたし・・・

とまあまあ満足してしまったというわけです。

 

というのも、ラスボスであるガノンを倒しても達成感はあまり感じなかった、というあたりで気づいたことなのですが。

そもそも本作はゼルダの伝説であり、アクションゲームであり、しかしむしろパズルゲーであり、ゲームの習熟度合いというよりはギミックに如何に気付けるか、ということに比重がよっているのです。

倒したといってもガノンはバリアを剥がす方法が分からずにバクダン矢を100本以上ぶちこんだりしていたりするし、資本によるゴリ押しが効くつくりなのですが。

それ以上に、プレイヤーの腕前云々より以前に、プレイヤーの気付きによるアハ体験こそが本作を駆動する要なのだと最後の最後でようやく分かったのです。

つまりは解くための謎に突き当たることこそが、このゲームの「報酬」であるわけですね。

 

正直なところ、自分はパズルゲーはそんなに得意なジャンルではないこともありましたし、

祠やコログといった要素も、クリア報酬もらってもある程度以上は必要十分を過ぎているので魅力が薄く、

なにより、成長してもそれを振るう有意な敵キャラが存在しない、というのが気が抜ける要素になりました。

 

この何でもかんでも戦闘に結び付けなきゃ気が済まない性分は、完全にダクソに毒されている自覚があります。

ただ、どんなゲームでも同様ですが、「もういいかな」となった時がその人にとっての、そのゲームの寿命であるのでしょう。

自分にとっては「探索してもその先に続くものがない」ということが契機になってしまっただけなので、これは相性というものです。

よくよく考えてみれば、「ストーリーを追うため」「ガノンを倒すため」という目的のために探索をしていた節があるので、あまり相性はよくなかったのかな、とも思います。

 

まとめ

噂に違わぬ良作です。

ただ、85時間遊んでおいてなんですが、ラスボスまで倒したのに全くプレイし終わった感がないのは、すごい独特なプレイ感だな、と思います。

ストーリー性があるものやラスボスが定められているものというと、そこに節目というか山場が設けられていて、ある程度の達成感が感じられそうなものなのですが、それがない。

ラスボスがゲームのエンディングとしての華というよりはマイルストーンの1つにすぎないというか。

 

飽きるまで楽しめるのが遊びだというのなら、飽きた時にそれがどこであってもサヨナラするのが自然なのも、ある意味でとてもゲームらしいゲームなのかな、という不思議な感覚に脳みそが混乱しています。